真澄先生 どうでもいいおはなし

「おはなし」に対する感想など皆さまのご意見を、お待ちしています♬
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もくじ(クリックすると各項目へジャンプできます)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その1」(2020.4.15)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その2」(2020.4.17)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その3」(2020.4.20) 

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その4」(2020.4.22) 

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その5」(2020.4.26)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その6」(2020.5.10)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その7」(2020.7.31)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その8」(2020.8.10)

 〇 真澄先生「どうでもいいおはなし その9」(2020.9.10)


掛川シティコーラスの皆様へ

 「どうでもいいおはなし その1」(2020.4.15)

 佐 藤 真 澄

 学校の桜が入学式の日には見事に咲いていましたが、そこにあるのは入学生とその御父兄の姿だけでした。本来であれば、在校生が盛大に迎えるはずの記念すべき、感動の一日がこの新型ウイルスによってすべてが失われてしまいました。中には、仕方がないねとおっしゃる職員や御父兄もいらっしゃいましたが、本当にやり切れない気持ちで一杯でした。さらに、運悪く合唱部は休み、授業は休み、吹奏楽部は休みという今まで無かったことが続いていたため、ストレスのためかついに管理職と怒鳴りあっている自分がいました。とにかく、いかに普通が大事かということを思い知らされている毎日です。

 さて、合唱団もほぼ2か月間全くありませんでしたが、団員の皆様におかれましては御変りございませんでしょうか。特に、合唱や吹奏楽、管弦楽など室内で練習するものは一切出来なくなっていまっていますので、アマチュアはまだいいでしょうが、プロの方々やレッスン等で生活なさっておられる方にとっては本当に厳しい毎日を送っておられることと思います。

 遅れましたが、これから不定期になりますが、こうしたどうでもいいコメントやカルミナブラーナについての情報を発信していきたいと思いますので、見なければならないというものではありませんので、ご理解をください。

 さて、第1回目は何にしようかと考えましたが、まずは自分の事を語るのが手っ取り早いと思いまして、少しぐだぐだと書かせていただきます。

 大学1年生の頃(1975年)、私の声楽の師匠は森明彦という先生で、当時は、日本発声学会の理事長をされていました。ドイツ帰りのバリバリで、今では死語になっていますが、スパルタ教育?なんて言葉は当たり前でした。私は森先生に大学4年間とその後もお世話になりました。今でも記憶にあるのは剣道の竹刀を持ってレッスンをされ、それはそれはレッスンは恐怖でした。西武池袋線を使って江古田という駅があるのですが、当時はそこに森発声研究所という場所がありレッスンに通っていました。電車の中でわけのわからない発声練習をやったり、とにかく電車に乗っていても発声のことばかり考えていました。多分、周りの方々にはご迷惑をお掛けしたと思います。暗譜は当り前。怖いので一生懸命練習するというバカな大学生でしたが、今となっては懐かしい思い出です。

 そんな中で、不思議な体験をした記憶があります。毎夏合宿を軽井沢でやっていまして、私も参加をしていました。徹底的に体をいじめまくるという合宿なのですが、もう立つことも困難なくらい練習をし、ある時、その合宿を終えて東京に帰って、さあ。声を出そうかと思った瞬間!!「なんと。何も息を出していないのに声があふれ出る」という不思議な体験したのです。「小指でピアノを持ち上げるような」言葉では言いようがないのですが、無意識の内に声が溢れ出すのです。その時「これか先生のおっしゃる体を意識しなくなるまで体を鍛えろというのは」と。こんな現象は今ではもちろんできないですが、その感覚はしっかりと記憶に残っています。この時が、声と体の密接な関係を思い知らされた瞬間でありました。

 また、体育会系の部活(アーチェリー部)にも入っていたので、結構忙しい学生生活でした。そして、大学3年生の時に、第九のソリスト等もやらせてもらいました。

 森明彦先生の発声理論は、ドイツのフスラーの理論によるもので、当時は新しい発声法として知られるようになりました。現在では異論もあるようですが、今も販売されている「うたうこと」という発声器官の解剖学的な視点から発声法について書かれた名著で、興味のある方はまだ売られていますのでお読みになるといいかもしれません。当時の演奏家には、フィッシャー・ディースカウ、ヘルマンプライ、ペーターシュライヤー、プラチドドミンゴ、パバロッティのもう大活躍する時代でしたので、何と幸せだったことか。中でも、フィッシャー・ディースカウの声質は、倍音を多量に含む誠に繊細なものでした。機会があればぜひ聴いてください。

 もうこのような歌い手は生まれないでしょう。

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「どうでもいいおはなし その2」(2020.4.17)

 私の師匠であった森先生のお弟子さんには、山路 芳久さんというヨーロッパの歌劇場などで活躍する日本のテノール歌手(日本のテノール歌手がヨーロッパの歌劇場で専属として主役を歌ったりするのは山路さんが最初でした) 当時は大きなニュースとして扱われました 。 その山路芳久さんも森先生が育てられました。 山路さんは若くして亡くなられたのですが、今は知らない方が多いとは思いますが、素晴らしいテノール歌手でいらっしゃいました。 その他にも佐々木正利先生(岩手大学教授)等多くの声楽家を育てられました。

 また「SINGEN」(ドイツ語で歌うという意味)という同じ発声法による合唱団を創設され、度々演奏会もされました。当り前ですが、同じ発声法による合唱はそれは見事でありました。また、3年前になりますが、森明彦先生(一昨年亡くなられました)が、お体が悪いのにわざわざ西高校の合唱を見に来ていただいたことがあり、その時に「いい仕事をしているな」とさりげなく褒められたことがありました。多分、初めて褒められたのではないかと思いますが、年甲斐もなく思わず涙ぐんでしまう自分がいました。本当に感謝でしかありませんでした。今では、こうした師弟関係というのは、どうなのでしょうか。無くなりつつあるのではないでしょうか。寂しいことです。今の学校教育にはこうした関わりは求められていませんし、肌と肌が触れ合うような教育は現場から消え去ってしまっています。果たしてこのような教育は人間を成長させることができるのでしょうか。私は大いに疑問です。

 さて、ふと今 、高校生の頃の事を思い出したのですが、やはり東京でありましたので、私のような田舎から出て行ったものから見ると、とにかくいろんな意味で東京の高校生は、ませていました。今だから書けますが、その子達から煙草もお酒も教わりました。高校生の後輩に飲みにつれて行かれたのですから。今の時代だったらちょっと怖いですね。

 しかし、一方で音楽の面では優秀な人材が多くいました。青島広志先生(作曲家)はその一人ですが、とにかく高校生の時はピアノが上手で、「佐藤君これくらい初見で弾けなきゃだめよ」と、一言。一風変わったキャラクターではありましたが、林光先生という日本を代表する作曲家に弟子入りされていました。その高校生時代に全校生徒で歌ったのが、「カルミナブラーナ」でした。当時は、訳が分からず歌っていましたが、歌詞が暗譜できずに前の生徒の背中に歌詞を張り付けて歌った思い出があります。

 しかし、そうした経験は今の私の原点だと感じます。一緒に歌うワクワク感と、何とも言えない感情が沸き上がって来たのです。そうした経験があって、今、シティコーラスの皆様と一緒に高校生に歌わせることは、とても意味のあることだと思っているのです。

 そして、生意気ですが将来合唱を続けたいと思う人間を一人でも育てたいという思いがあります。

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「どうでもいいおはなし その3」(2020.4.20)

 さて、また話は高校生の時に戻りますが、今回は本当にどうでもいいことですので、読まないほうがいいかもしれません。

 私の通っていた高校は比較的自由な高校であったのですが、最初は寮生活をしていました。しかし、この寮生活がまた大変で、男子ばかりですので当然、厳しい上下関係がありましたので、なかなか慣れることはできませんでした。食事をするときにはまず先輩が食べ始めてから食べることは当たり前でした。自分も続いて食べようとするのですが、先輩のお茶碗のご飯が無ければその接待もありましたので、自分が食べられる時間も限られていました。そんな毎日ですので、十分に食べられず、コンビニがあるわけでもなし、常にお腹を空かせていた記憶があります。

 そんなある時、忘れもしない。どうしてもお腹がすいて寝られないので、夜中1階の食堂へ何かあるかもしれぬとこっそり行きまして、冷蔵庫を開けてみると、何と長ネギが1本入っていました。あとはご想像にお任せ致しますが、料理なんてできるわけありませんので、〇〇〇しまったのでした。生徒にこんな話をすると笑って聞いていますが、おばあちゃんに聞いた戦時中の時のような話ですからね。しかし、高校時代の習慣というのは残っているもので、今も食事をするのが少し早いのはその寮生活で身に着けたものだと思います。

 その後、私は1年で寮生活を断念しまして、まかない付きの下宿(新たな住まいは、当時、まだ単線であった横浜線の淵野辺駅の近くでした)に移り、新たな生活を始めたのでした。寮も出たこともあり、より自由を得たことで、前回お話したような煙草、お酒を覚え(常に煙草・お酒が身近にあったわけではありません)まさに調子に乗っていた年頃でありま した。以上、すみません。本当にどうでもいいはなしでした。

 そんな高校生活の中で、音楽教師になりたいと考えたのは、前回書かせていただきました経験ももちろん大きかったのですが、何より音楽の授業が好きでした。何故かというと、音楽の先生が4人もいらっしゃってそれぞれ個性豊かで、とにかく授業が楽しくて、その都度何処に座ってもよい自由席ということもあり、いつも水野君という今でいうイケメンの同級生と、いつも一番前列の先生の前に座るようにしていました。そして、なんといっても良く歌いました。基本は合唱なのですが、先生が面白い。それにつられるように歌が好きになっていったのでした。その音楽先生方の影響は今でも非常に大きいと思います。

 また、部活動は吹奏楽部で、全国大会へ行くような吹奏楽部でした。そんなこともあり、丸ノ内線の方南町駅にある、かつての吹奏楽の聖地である普門館(2018年解体され、かつては カラヤンも演奏・録音したホール)へはよく行くことがありました。掛川生涯学習センターの5倍はあるそれは大きいホールで、上手から下手まで80m近くあったのではないでしょうか。5000人が収容できました。その中で演奏できたことも大きな財産になっています。

 何だと思われるかもしれませんが、私は外国のポップスやロック音楽からも大いに影響を受けました。高校1年の頃初めて友人に薦められて聴いたのが、ハードロックというもので、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「シカゴ」「ディープパープル」「レッドツエッペリン」というロックグル ープの曲を聴き衝撃を受け、これ以来ポップスやロック音楽にも興味を持つようになり、今でいう鑑賞教室で観たロックミュ-ジカル「ジーザスクライス・スーパースター」は特に印象に残っています。大学当時も良く先輩からレコードを借りては聴いていました。日本人ですと当時デビューしたばかりの山下達郎の音楽は大好きでした。なぜか、当時流行のキャンディーズ等のミーハー的音楽(手打ちのパチンコ屋で無理やり聴かされていた)には全く興味がありませんでした。

 黒人音楽であるソウルミュージックは流行りだしたころですので、時々アーチェリーの部員の仲間で、ディスコ通いもしたのでした。ジャズも聴いていました。キースジャレットのジャズピアノ即興は最高でした。坂本龍一さんのYMOもシンセサイザーという楽器が出始めた頃でもあったので、ものすごく新鮮でした。というように、クラシック音楽も勿論聴きましたが、1970年代のポピュラー音楽 (現在ではほとんど使われないクラシック音楽と区別するために使われた言葉)も、今の私の肥やしになっていると思うのです。
現在でも、ポピュラーミュージックは私には欠かせない存在です。今は、「チェット・ベーカー」のトランペットジャズにはまっています。

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「どうでもいいおはなし その4」(2020.4.22)

 さて、話が大分それてきましたので、少しずつ修正したいと思います。

 高校、大学と育った東京を後にして、教員として赴任した所が、下田の方々には失礼な言い方だとは思いますが、当時、静岡県の陸の孤島と呼ばれた伊豆下田でした。1979年(昭和54年)の春でした。確かに下田は遠かったですが何もかも新鮮でした。現在は廃校になってしまいましたが、下田南高校という学校がありまして、その学校が音楽教師としての第一歩でした。学校には合唱部があり割合人数もいましたが、女子ばかりでしたので少々若手男性教師としては慣れるのには時間が必要でした。

 また、下田で生活をしているうちに、不思議なもので自然に引き付けられるように地元で有名な、永年音楽や美術の教師として地元を支えてこられた、私から言えば「おばあちゃん先生」に出会いまして、クリスチャンでもあったため、良くそのお宅で歌を歌っているうちに、賛美歌を歌う小さな合唱団ができたのでした。そのうちに合唱団を作ったらどうかという話になり、そのおばあちゃん先生の支援で、自然に教会へ行くことも出てくる中で(出身の高校もキリスト教系の学校でもありましたし、礼拝で伴奏を弾くこともありましたので全く自然でした)今度は教会で合唱をするようになり、それがきっかけで、「下田コールフロイデ」という合唱団を設立するに至ったのでした。当時は下田に合唱団が無かったこともあり、人は自然に増えていきました。現在でも、そのあとを引き継いでいただいいている大石悦子(武蔵野声楽科御出身)さんという方が今でも指導くださっていまして、いつか「一緒に合唱をやりたね」と時々話をしているのです。ぜひ、機会があれば皆さんで下田へ遠征して合同コンサート等いかがでしょうか。

 さて、話を高等学校の合唱に戻しますと、その頃は、静岡県の高等学校の合唱部はどこも100人近い部員を持つ合唱団が多くあり、東部では富士宮東高校、沼津西高校、三島北高校、韮山高校、中部では清水西高校、常葉学園高校、藤枝南高校、藤枝西高校、静岡城北高校、焼津中央高校、掛川東高校、磐田北高校、浜松市立高校等、合唱を指導されるベテラン先生方も多くいらっしゃいました。本当に、歌うと空気が動くような合唱をいつも聴かせてくれました。当時、静岡県内の合唱部の生徒数は総部員数2000人近くいたのだと思います。それこそ私の父は、現役教師で掛川東高等学校を指導していましたので、新米の私はいつもどきどきしながらその空気が渦を巻くような合唱を聴いていたのです。ただ、合唱について父に教わった記憶は一切ありません。「自分で勉強しろ」という感じでした。そんなものですね。

 それに対して、今の静岡県の高校合唱部員は400人も切りそうで、そのころの面影は一切無くなり、あの頃が高等学校のピークだったのだと思います。

 それから時が過ぎ、現在静岡県の合唱界は、その当時高校生だった方々により支えられているのです。ですので、これからの合唱界を支える人づくりをしなければならないのは、本当に急務だと思っているのです。文句を述べるのは余り好ましくないとは思っていますが、それにしても現在の全日本合唱連盟にしても、静岡県合唱連盟にしても何を考えてやっているのでしょうか。喩えでこんな言葉があります。「高い上のほうから下を眺めた時に、高いビルも低いビルも同じように見えてしまう」と。

 つまり、今の合唱連盟もその通りで、低い所が見えていません。教員の働き方改革が進む中で、合唱コンクール小学校合唱部門(昨年度より開催)を作れば発展につながるなどと、本当に考えているのでしょうか。私はもっとやらねばならないことが合唱連盟にはあると思うのですが。高みばかり見ているその姿には危機感があまりにもないのには呆れてしまうほどです。ならば、自分でやるしかないかということで、今、準備を掛川市と進めている所です。

 さて、話はさらにそれますが、皆さんもご承知のとおり、福島を中心とした東北は合唱王国と呼ばれています。それほど合唱が盛んで、上手なことは良く知られています。そしてここからなのですが、以前より私は、東北の高校生の合唱を聴くたびに人を惹きつけるのはどうしてだろうと感じていました。それは技術的なことだけではない何かがあると。東北弁が影響してるのだろうかとか、顔つきが違うのでは等いろいろと考えてみたのですがわかりませんでした。しかし、やっと理解できたのでした。その答えは何だと思われますか。実は、私の家内もその両親も東北秋田、福島の生まれなのですが、あるテレビ番組で福島の方々の生活を記録した番組を観たとき、やはりこれだと思ったのは、東北の人々の「人を受け入れる包容力と、にじみ出る優しい人柄」でした。それが、歌に反映され、だから人を引き付けるのだと。もうこれは間違い無いと断言できます。やはり合唱は人そのものが大事なのですね。

 また、悩みが増えてしまいました。

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「どうでもいいおはなし その5」(2020.4.26)

 さて、いよいよ「その5」に入ってきましたが、前回、東北はどうして合唱が上手いのかというお話を少ししました。中々理解をするのが難しいかもしれませんので、もう少しご説明します。「音楽」というのは、もちろん「技術」も必要ですが、高みに昇れば上るほど、「純粋」になっていきます。何って言ったらいいのか、むずかしいですが、イチローが打撃のことを「ボールを見るのではなく、身体全体で感じるのです」という言葉で表現していますが、まさしく彼の研ぎ澄まされた感性を表現している言葉です。合唱に限らず音楽は、その高みまで行って突き詰めて行こうとすると、結果的に「人」そのものに戻ってきてしまうのです。その人が「澄んでいくこと」が要求されてきます。そういう事なのです。だから難しいというか、不思議なのです。「人」の色が音楽という空気振動に乗ってくるのです。本当に面白いのです。だから、その「人」一人ひとりが大切なのです。これは事実であり、私は間違っていることは申し上げていないと思います。偉そうなことを言っている私ですが、まだそうした「音楽」の見えない世界へたどり着く術を知らない未熟者です。これからも「掛川の合唱」というのを目指していきたいと思います。

 ここで、もう一度申し訳ありませんが、私の履歴に戻らせてください。人の履歴なんてどうでもいいことだと思いますので、とばしていただいても構いません。ただ、私は何者なのかという所をお話しておく方が、これからの合唱活動に生かせるのでは考えたのでこのようになっております。お許しください。

 さて、私は下田の後は、静岡東、島田商業高校と学校は変わって行き、次第に掛川に近づいていました。ですがその頃は、静岡県吹奏楽連盟の事務局長のなかなか大変な役割を4年間ほど務めさせていただきました。その後、何故か急に県教育委員会への赴任が決まり、学校とはこの後8年間も離れることになったのでした。では、そこで何をやっていたかというと、今では知事部局に統合され「文化振興課」となってしまいましたが、当時は、県教育委員会の中に文化課という部署がありまして、その部署にお世話になったのでした。文化課の仕事は、静岡県の埋蔵文化財の管理研究や文化行政ということになるでしょうか。私は、県の高等学校文化連盟という組織の事務局長を務めることになってしまったのでした。これがまた全県下の高校生から分担金当時一人350円でしたが、高校生は、15万人ぐらいいましたので、数千万円のお金を動かすことになったのでした。基本的には高校生の文化活動を支援するという部署なのですが、そこには様々な文化活動があり、吹奏楽、管弦楽、合唱、日本音楽、軽音楽、演劇、書道、美術、囲碁将棋、百人一首、放送、郷土芸能、特別支援学校、定時制・通信制等々全部で24部門の支援や、文化庁と県とのパイプ役や、国立劇場歌舞伎公演を毎年開催するために国立劇場と打ち合わせを行う等、音楽とは全く違う仕事ではありましたが、高校生の文化活動に関わることができたことや県文化協会という団体がありまして、県の芸術祭を指導する部署でもありましたので、美術(油彩・水彩・工芸等)や書道の重鎮の先生方にご指導をいただく機会に恵まれたことも非常に大きな財産となりました。丁度このころは、私自身が「喉の障害」にも苦しんでいた時期でもありまして、一方では同じ障害で困っている人たちと一緒に全国組織を立ち上げたりして、音楽とは離れている寂しさはあったものの、違う側面で私の力となっていったのだと思います。

 この「喉」のお話は、またの機会にお話をするようにします。

 また、2000年(平成12年)には「第24回全国高等学校総合文化祭静岡大会」、高校文化部のインターハイといわれる大会があり、全国から文化活動に取り組む高校生が集まって来るのですが、その推進室にも勤務し感動的な大会を終了するまで無事勤め上げることができたのでした。というようなことで、私と高校生の文化活動というのは合唱だけでなく、切っても切れない存在になっていったのでした。高校演劇などは本当に素晴らしいですよ。ちなみに、今年は高知県で全国高総文祭がありまして、掛川西高校音楽部も代表で参加することになっていますが、このコロナで開催が危ぶまれています。頼むから開催してくれ~。

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「どうでもいいおはなし その6」(2020.5.10)

 今日は、5月9日(土)です。学校は今のところ今月末まで休校という話にはなっていますが、現在、西高校では授業を受けることができない生徒の不安を、早く解消するためにということで、県下公立学校では初めて「動画」での授業を導入しています。文科省も推進していることですのでそうした方向を率先して取り入れているということですが、これが案外大変で、先生方も戸惑いながら行っています。芸術は特にこういうときは、特に音楽は難しいですね。書道や美術は一応目に見える作品が対象ですのでまだいいのですが、音楽は見えないのです。

 正直言ってしまうと、音楽の実技は一切できません。ところが、先日テレビで他県の中学校の音楽の先生が、パソコンに向かって歌の授業で「さあ、リズムを合わせましょう。イチ、ニ、サン、シ」なんて言いながら授業をやっていましたが、その先生には大変申し訳ないのですが、私は「大きな溜息」をついていました。できるかどうかは別にしても、やっていいことと悪いことがあると思いませんか。ですので、私の場合には、「鑑賞」や、「楽典」(楽譜の学習)だったり、実技をするうえで必要な知識についての授業を行っています。これが、生徒にとっては案外プラスになるなと思うこともあり、何とか今のところ順調に授業を行っています。いずれにしても、早く収束して日常の学校生活が戻り、生徒が元気な姿を見せてくれることを祈るばかりです。

 さて、前回は全国高等学校総合文化祭推進室に勤務していたお話をしましたが、実は毎年この大会では、「郷土芸能」「日本音楽」「演劇」の3部門で優秀校になった学校は、東京国立劇場での優秀公演に出場できることになっていまして、毎年8月の末に開催されるのですが、これがまた「本当に素晴らしい」です。一般にも開放していますので、チケットを購入すれば鑑賞できます。チャンスがあれば、ぜひ見てあげてください。自分はめったに素晴らしいという言葉は使いませんが、本当に感動します。どうしてこれをテレビ放送しないのかと思うくらいです。やはり、こういう所で、「文化の発信力の弱さ」を感じてしますのです。もったいない‼
また、音楽部出場予定の高知大会ですが、開催有無はまだ決まっていません。本当に、文化だけではないですが、とにかく生徒が可哀想でなりません。

 さて、話を私の履歴にもどしますと、県庁勤務後の異動について、これは今だから言っていいと思うのですが、当時は「希望した所へ行かせてあげるよ」みたいなところがありまして、私はすでに「特別支援学校」への勤務を希望していたのでした。それには理由があるのですが、この大会で静岡県は「特別支援学校部門」を作り、全国大会として開催した初めての県でした。文化のパラリンピック的な催しとお考えいただければいいです。この大会を通じて、障害を持っている高校生と話したり、支援をしたりした経験が非常に大きかったと思います。とにかくその「自然で自分に正直な姿」に惹かれました。勿論、音楽教師としてやっていく思いはあったのですが、かっこよく言えば、まずはここで出直してみよう、と考えたのでした。

 しかし、現場に戻るとやはり理想と現実には大きな隔たりがあり、大いにやる気はありましたが、とにかく様々な障害を持つ生徒さんがいましたので、まずは個々の生徒にどのように接したらよいのか、から教わりました。生徒指導のイロハが全くわかりませんでした。しかも、学年主任でしたので指導する立場でなく、先生方に逆に教えていただく有様で、本当にご迷惑をお掛けしたと思います。当時のお話をするといろいろと出てきてしまうのですが、とにかくここで教えていただいことは本当に沢山ありました。自分でできることが限られている子ども達ですので、できることを増やしてあげるために「手立てを考えること」「できるのを待つこと」「最後まで信じること」「褒めること」。これは、永年教員をやってきたにも関わらず、改めて教師の姿勢・原点を教えてもらった場所になりました。

 現在、西高校では、掛川特別支援学校との交流を、ここ4年間程続けていますが、これも私が支援学校で感じていたことを具現化できたその1つでした。たまたまその当時の同僚が管理職になったりしていまして、前々から西高生は教員になる生徒も多いことから、障害を持つ生徒との交流は何より大事だと思っていました。吹奏楽部と音楽部で訪問し、ボランティアや演奏会の開催を通して交流を始めました。

 そして、もう一つのねらいは、支援学校の生徒は音楽がとても好きですので、彼らの前で演奏をすることで、普段の自分たちの音楽に向かう姿がそのまま反応として返ってきてしまうことも、音楽に向き合う部員にとってはとても勉強になると考えたのです。

 ですので、ここでの演奏は、生徒も楽しみにしていると同時に、音楽と自分を振り返る真剣勝負の時間ともなっているのです。

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「どうでもいいおはなし その7」(2020.7.31)

 今日は、7月31日(金)です。しばらく書くことができませんでした。申し訳ございませんでした。皆様も大変な毎日をお過ごしのことと思いますが、これだけ歌わない時間が長いと、声の筋肉が弱くなってくるのは当り前で、これを取り戻すには半年ほどはかかるのではないかと思われます。さらに、「おしゃべりをする」という機会も失われていますので、まずは日常の「しゃべる」ことも大事にすることが必要です。家の中で一人おしゃべりというのもなんですので、「走る車の中で歌う」これが一番手っ取り早い方法だと思います。ただ、事故には十分ご注意ください。

 また、マスクをしていると声は響きませんのでそれに慣れてしまうのも怖いです。西高校の合唱部の生徒も、長い間マスクをして生活をしていましたので、マスクを取って発声すると、発音とか声質が変わってしまっていました。発音がはっきり出ていなかったり、声量もなく、なにより声の響きが無くなっていました。高校生でも回復するのに1か月かかりました。今は我慢の時ではありますが、どうぞご自宅でも、前述しましたように、できることをお願いします。急に歌うことは多分難しいと思われますので。

 さて、ここで最近の学校の様子をお話したいと思います。一応、お断りをしておきますが、これから書いてあることはあくまで私の個人的な発言ですので、お気にさわりましたらお許しください。現在、さらに厳しい事態がやってきていますが、学校は落ち着きを見せてきた6月より始まりまして、最初の頃は学校内で、大分コロナについて注意喚起を行ってきましたが、最近はその注意も緩んできているというのが正直な所です。例えば、授業においては体育の授業や運動部などはマスクを取り、普通に体育館やグラウンドで活動をしています。これも私はランニングをすることもあるのですが、当初はその際もマスクをして10メートル空けて走ってください等の注意がマスコミでも言われていたほどですが、現在は、普通に生徒同士が接触していますし、西高校だけではないと思いますが、暑いということもあり、教室の中だろうが、外だろうがマスクを外して関係ないというような状態です。正直学校は西高校に限らず、どこも同じような状態なのだと思われます。

 吹奏楽部については、勿論マスクして楽器は吹けませんので練習中はしていません。合唱部も最近はマスクなしで通常練習をしています。演劇部もマスクなしで大声を張り上げ、応援団も同様です。学校の中だからリスクが低いということの表れでしょうが、果たしてそうなのでしょうか。電車通学の生徒も多いのですが、ホームでも電車内でも密になっていますし、感染リスクは大変高い環境です。その生徒が学校内に入って今申し上げた状態ですので、いったい何が正しくて何が間違っているのかわからなくなっています。

 海外ではさらに状況は逼迫していることは承知していますが、日本だけに限って言うと、昨年度、インフルエンザで亡くなった方は、日本国内で3000人を超えているそうです。コロナは確かに重症化しやすいと言われていますが、しかし、素人からすると一体何処が違うのだと、いい加減な発言となって口から出てしまうのです。勿論、感染しないことは大切な対応だと思うのですが、国は世論に押されて厳しめの発言が多くなってきています。私は、最初に国が発言していたような、共生が必要という曖昧な対応が一番だと感じます。

 例えば、最近読んだ本に「ファクトフルネス」というものがありました。ベストセラー本ですので読まれた方もいらっしゃると思います。「ファクトフルネス」とは、「事実を観て、事実から真実を見つけだそう」という考え方なのですが、その中でこういった出来事が紹介されています。

 2011年3月11日。東日本大震災があり、1万8000人の人の方が亡くなりましたが、原発の事故の放射線被ばくから逃れるために多くの方々が避難しました。しかし、避難の影響で体調が悪化したり、ストレスが積み重なったりして、避難後に亡くなった人の多くは高齢者で、1600人の方が死亡したとされています。人々の命が奪われた原因は被ばくではなく、被ばくを恐れての避難だった。つまり、果たして避難したことが良かったことなのだろうかということなのです。

 被ばくの次には、殺虫剤の話です。1940年代、憎たらしい害虫をやっつけてくれる殺虫剤「DDT」が作られました。農家は大喜び。マラリアと闘っている人たちも大喜び。DDTは農作物や、湿地や、家の中に散布された。DDTの発明者はノーベル賞を受賞しました。

 しかし、1950年代に入ると、環境運動家たちが、DDTに懸念を抱くようになり、つまりDDTの危険性(発がん性)や環境汚染を指摘し、その後使用禁止となります。ところが、そのことによって逆に蚊が増えて、マラリアで10万人もの人が亡くなってしまったという事実があるそうです。そして、DDTによって命を亡くしたという事例は無いそうなのです。このことから、果たしてDDT禁止、それは正義であったのかという言葉を投げかけています。その後、世界保健機関は、DDTを「人体にとって、やや有害」だと位置づけたが、多くの場面で、DDTのメリットはデメリットを上回ると指摘をしたそうです。

 また、過去には「はしかのワクチン」も危険であるということで取りやめになったことで、たくさんの子供が亡くなっているということなのです。

 私たちは、コロナウイルスに対して恐怖を日頃感じているわけです。それによって外出を恐れたりすることで、逆に高齢者の孤独死が増えたり、若者の自殺者が増えたりしているわけで、つまり、コロナの「恐怖とリスク」をどこかで見分ける必要に迫られている、ということなのだと思うのです。

 そういう意味では、先程も申し上げたように、政府の考えは甘いという批判を受けてはいますが、私は政府の共存・共有の考えで良いと思っています。今、メディアも感染者数で恐怖を煽っています。我々もあまりにも感染者の数ばかりにとらわれてしまっていると、本来それによって生まれるだろうリスク(経済活動を始めとする人間の諸々の活動)というものが、この先取り返しのつかないことになってしまうのではないかと逆に心配もするのです。そうした所にもっと着目しなければいけない時期なのではないでしょうか。

 そうした意味では、合唱や吹奏楽、演劇などの息を使う文化活動も、そこから生まれ出るリスクというものを考えつつ、正しく恐れ、コロナと共存しながら、そろそろ上手に始動をしなくてはいけないと思うのです。私の考えは間違っているのでしょうか?

 皆さんはどのようにご判断されますか。また、御意見をお寄せいただければ幸いです。

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「どうでもいいおはなし その8 お知らせとお願い)」(2020.8.10)

はじめに。

 団員の皆様は御承知のことと存じますが、コロナの状況が好転するどころか、悪化している状況で、医師の佐野先生にも御助言をいただきながら、やはり再開するにはリスクが大きいという判断を致しました。練習を楽しみにしておられた団員の方もいらっしゃると思いますが、誠に残念ではありますが、今年年末まで練習は中止とさせていただくこととなりました。どうぞ、もうしばらく健康に留意しながら、少し自主練習を加えながらスタートの日をお待ちいただければと思います。

 さて、今回は、シティコーラスとは関係の無いことではありますが、将来的にはシティコーラスとも関わりが出てくることと思っていますので、「お知らせとお願い」という形で書かせていただきました。これからお話させていただくことに、御賛同をいただけるような方がいらっしゃれば、ボランティア等の御支援をお願いできないかという勝手なものです。誠に申し訳ありませんが、シティコーラスのこの場所をお借りして少しだけお話させていただきます。

 その内容についてですが、以前にもどこかでお知らせをさせていただきましたが、今、掛川市を初め、全国的に、小学校・中学校・高等学校の音楽文化活動が低迷しています。その要因は、様々あるのですが、芸術授業の削減、指導者不足、生徒の減少、国の部活動縮小政策、教員の働き方改革等で、そもそも部活動をしない生徒も近年増えてきています。我々の時代は部活動はやるものという時代に育ってきましたのですが、今は、そうした流れが変わりつつあり、別に部活動はやらなくていいからもっと好きなことをやりなさいというような、曖昧な状態になっています。実際、掛川市の中学校、西高校でも部活動に入らない生徒が増えてきています。そもそも、部活動文化は日本独特のもので、欧米には無かったものです。運動部にしても文化部にしても、日本の教育に大きく関わってきたことは間違いありませんし、人間教育という面でもその存在は大きかったと思います。しかし、今その流れが変化し、一般の方にはあまり顕著には映らないかと思いますが、学校内では大きな問題として取り上げられることも多くなってきました。

 特に合唱等は、中学校には部活動は勿論ありません。文化部は、美術部と吹奏楽部に限られています。他は、運動部ばかりです。今年度、県内高校生の合唱部員数は400人です。今までで最も少ない人数になっています。多分、現在50代、60代で合唱されておられる方で、高校の頃合唱部員だった方も多いと思うのですが、調べたところによると、昭和54年当時には県内で約1500人程度の合唱部員がいたと思われます。それが、このような状態で、将来、合唱活動をする一般の方々の数も減少することは、目に見えて理解できるわけです。そのような訳で、何とかして合唱の担い手を育てる方法は無いものかと思案したことが以下のことのきっかけでした。

そこで、ここからは、まだ公になっていませんので、よろしくお願いします

学校で部活動ができないなら、地域に移してやりましょうという仕組みを、現在、掛川市・掛川市教育委員会・掛川市文化財団等と大きな枠の中で考えており、「NPO地域芸術クラブ」という団体を設立して、来年度から試行したいと準備を進めている所です。こうした取り組みは、全国初の取り組み「掛川式モデル構想」として、発信していく予定になっています。

 その仕組みですが、簡単に申し上げれば、学校(小学校・中学校・高校)で部活動に入っていてもいいから、週1回学習センター(掛川市の南部地区も検討中)に集合すれば、吹奏楽・合唱・弦楽の分野を対象に、いろいろな音楽活動に参加できるよ、というものです。しかも、その分野に熟達した、地域で活動する吹奏楽団や合唱団、あるいは掛川市民オーケストラの大人や高校生の指導を受けることができるという仕立てです。しかし、これにはいくつも課題があり、現在検討を重ねているということなのです。

 どれだけの子供たち(小学生~高校生)が集まるのかは未知数ですが、当然ながら子供たちの様子を「サポートするスタッフ」も必要になってくるわけです。詳細はこれからになりますが、御賛同いただけるような方がもしいらっしゃれば、ぜひスタッフとして御参加いただけないかなという図々しいお願いなのです。これには、皆さんも御存知の「文教創造ネットワークの齊藤 勇さん」が大きな役割を担っていらっしゃいます。齊藤 勇さんはすでに「Pallete」(パレット)という「地域部活動」を始動させています。

 大ざっぱに全体をお話させていただきましたが、もう少しすると詳細がお話できると思いますので、ぜひ若い音楽文化の担い手の育成に、お力をお貸しいただきたくお願い申し上げます。なお、御意見や御質問等ありましたら、お手数ですが下記まで御連絡をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。


【連絡先MAIL】 佐藤 真澄 mashyu0324★icloud.com
(★を@に変えて送信してください)
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「どうでもいいおはなし その9 」(2020.9.10)

 9月に入りました。今日、10日(木曜日)の天候は、相変わらず変わりやすいですが、比較的涼しい秋の風が吹いています。有難いです。

 さて、もう9月と言っていいのだろうと思いますが、けじめの無い夏だったと生徒も言っているとおり、大人にとってもけじめのつかない夏でした。来年は、一体どのように過ごしているのでしょうか?

 現在、私は、学校の授業も部活動も、吹奏楽団の練習もありますので、音楽とは繋がっていられるのですが、皆様は音楽に関わられていらっしゃいますでしょうか。コロナ禍の中でなかなか難しいとは思うのですが、私は出来るだけ意識して芸術に触れるようにしています。つい最近も、静岡市美術館で「ショパン200年の肖像」という企画展をやっていましたので観賞してきましたが、なかなかの展示品がそろっていてよい時間を過ごすことができました。

 しかし、まだまだトンネルは長そうですが、地方の文化会館等のイベントを見ていると少しずつ、音楽関係のイベントが増えてきたようにも思いますので、皆様も何らかの形で関わりを持たれたらいかがでしょうか。

 では、お話を音楽に戻しますが、シティコーラスの、第3回演奏会の日程も決まっていませんが、早くも先日掛川ウインドアンサンブル、笹原さん、戸塚さんと「カルミナ・ブラーナ」の練習を開始しました。ピアノ連弾がある曲のみでしたが、練習を今後積んでいけば演奏出来るという手ごたえを持つこともできました。正直申し上げると、管楽器にとっては、弦楽器・合唱が入ってこないと楽しく無い曲なのです。といいますのは、殆どメロディーが無いからです。時々、木管に出てはきますがほぼ伴奏ですから。なので、合唱が入ってくると楽しいよ。弦楽器が入ると楽しいよ。言いながら練習をしています。オーケストラの曲ですから、弦楽器が入って来た時に出来ないのではお話になりませんので、早めに取り組んでいる所です。ですので、合唱団の皆様も、初練習の時には、少なくともNO1,NO24,NO25はいきなりでも歌えるように御準備をお願いいたします。

 さて、話はさらに変わりますが、今年は静岡県合唱連盟主催の合唱コンクールは中止となり、県の芸術祭も中止となり、コンクール代替え演奏会も中止となり、発表の場が全く無い状態が続いています。そのような中、8月の29日、30日と福島県合唱連盟では、独自で合唱コンクールを開催する予定で、準備をされていました。ところが、運悪く?中学生と一般の方々が練習している合唱の中でクラスターが発生してしまったのです。ですので、コンクールはどうするのだろうかと思っていましたが、ここからがさすが福島県。普通であれば中止とするところですが、福島県はこの合唱コンクールを無観客ではありますが、開催することにしたのです。他県の合唱連盟であれば考えられないことです。深く読めば、福島の方々は、他県のためにも、ここは開催しなければならないと考えたのかもしれません。やはり、この状況の中で、中止という選択は考えなかった。ここでなんとかできないかという道を選択した、福島県の皆様の合唱に対する誇りと願いを、この出来事を通して感じたのでした。

 確かに、無謀だという方はいらっしゃるでしょうが、福島の方々は、それとは次元の違う所にいるのだと思うのです。私は素直に良く踏ん張っていただいたと、内から込み上げるものがありました。ただそれだけと言えばそれだけの出来事なのですが、以前にも書かせていただきましたが、福島の合唱の上手さや強さは、このような、合唱に対する誇りでできていることだと思うのです。

 さて、それならば我々も考えなければということで、掛川西高校音楽部からお知らせをさせていただきます。

11月22日(日曜日)JR掛川駅前にて演奏会を開催させていただきます。屋外とは言え、このような状況ですので、東京混声合唱団が開発した「歌えるマスク」(ちょっと不思議なマスクですが)を付けて開催します。演奏会の時間は未定ですが、おそらく午後2時ごろからになるかと思います。

 詳細は後日お知らせいたしますが、生徒の合唱の練習成果を発表する場が無いこともあり計画をいたしました。合唱団の皆様におかれましては、ぜひお越しくださいますようお願いを申し上げます。コンクール曲から子どもさんの歌まで楽しんでいただけるかと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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